舞洲のスポーツ産業を支える裏方達の話。 エヴェッサ×オリックス×セレッソ 営業マン対談

-セレッソの猪原さん、オリックスの山本さんは飛び込み営業をしていたと話されていますが、エヴェッサの清水さんも飛び込み営業をされていたのでしょうか?

エヴェッサ・清水:飛び込みというのは基本してないです。電話をしてアポイントを取ってから商談に入るという流れです。

セレッソ・猪原: そのアポは要は飛び込み電話ですよね?

 

エヴェッサ・清水:そうですね。新規で電話をして「大阪エヴェッサというプロバスケチームをご存知ですか?」という話から始めるのですが知らない方が半分ぐらいいます。最近は、「知っているよ」と言ってくれる方がだいぶ増えてきたかと思います。セレッソさんとオリックスさんを知らない府民はほとんどいないと思うんですが、僕らのチームの世間認知度はまだまだそのレベルまで到達していなくて、この電話も1つの周知活動になっていますね。

オリックス・山本:相手先は法人企業ですか?

エヴェッサ・清水:法人ですね。法人相手にHPを見て電話をするところや、何かのつながりで電話をさせてもらうところもあれば、街を歩いていて「電話をしてみようかな」というのもありますね。常にアンテナを張って営業活動を行っています。我々は今、中小企業を中心にスポンサーが約500社ぐらいいるんです。

 

<大阪エヴェッサ・清水さん>

営業=お金を稼ぐことは全て担当する

-スポンサー企業に対する営業をされることはありましたか?

セレッソ・猪原 最初の2年間はチケット関連のことをやっていました。その後はグッズの担当をして、兼務でスポンサー担当もやりホームタウン関連事業も携わって、と。その後、ファンクラブの担当を経てスポンサー営業に戻ってきました。プロスポーツチームの営業として、お金を稼ぐものは全て担当してきましたね。今、僕の担当している業務で比重が大きいのがスポンサーセールスというところです。スポンサー集めは知名度や強さが影響するということもあります。ただ、それに頼っていると、例えばサッカーだとJ2に落ちたり優勝したりすることでスポンサー料の金額を変えるというような話にもなるので、勝った負けたではなく“チームとしてこういうことをやっています”という話をベースに営業しています。

 

-猪原さんと清水さんが入社したときのセレッソとエヴェッサの知名度は高くなかったと思います。ただ、オリックスは山本さんが入った当時にはある程度の知名度があったので、その分営業は楽だったというようなことはあったのでしょうか。

オリックス・山本:私が入った時期はチームとしても話題性が強かったときなんです。95年に震災があった年にリーグ優勝、96年にはリーグ優勝&日本一になっています。私が球団に入ったのが99年なのですが、当時はまだイチロー選手もいました。また、球場もプロ野球では初の総天然芝のボールパークに改修し注目されていて、そういう意味では飛び込み営業はしやすかったんですよ。「オリックス球団で営業をしています」と言うと、「球団の人が来た」と迎え入れてくれて。当時は“がんばろうKOBE”という合言葉で神戸に活気が戻りつつある時期だったので成約になるならないは別にして、話だけは聞いて頂くことができました。

ただ、優勝を経験した後は、チーム成績はどん底に落ちてしまいました。3年連続最下位とか、監督も1年おきに変わるという事態でした。スポンサーも年間席の営業も、あの時は非常に厳しかったですね。ただ、今振り返ってみるとそれも、営業マンとして成長するには、いい経験だったかと思います。

球団では、様々な商材の営業を行ってきましたが、動かす金額も大きかったスポンサー営業は成約に至るまでの過程も含め、面白かったですね。

 

<オリックス・バファローズ・山本さん>

 

[後編に続く]


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